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CLOUDY HEART(クラウディハート)

ある日、ビデオを手に取りカウンターに行きますと、レジ横に設置されているテレビ画面にバンドが演奏している映像が映しだされていました。来店者に「現在人気のあるビデオ」を紹介するために設置しているテレビです。そこに映っていたのが「BOOWY」でした。あとから知るのですが、東京ドームでの最終公演『LAST GIGS』の映像でした。その映像があまりにカッコよかったので、「このバンド、なんて言うんですか?」とお店の人に尋ね、初めて僕は「BOOWY」という名前を知ったのです。

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最後の言い訳

徳永さんはデビューしたばかりのころ、プロデューサーと対立してレコーディングをやめたことがあるそうですが、対立した原因は自分の考えている歌い方とプロデューサーのそれとが違っていたからです。もっと深く原因を探るなら、徳永さんが自ら作詞作曲していることにあるのではないでしょうか。これは後年、徳永さん自身がインタビューで語っていましたが、「若さゆえの傲慢さ」という表現も使っていました。 歌に対するそれだけのこだわりというか強い思い入れを持っている徳永さんが、他人の歌をカバーするという発想が、

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ペニーレインでバーボン

そこで調べてみますと、昨年東京オリンピックがありましたが、さらにその前の東京オリンピック、つまり1964年ですが、そのオリンピックをきっかけに原宿に若者が集まるようになったそうです。 70年代に活躍した音楽業界の人たちの記事を読みますと、拓郎さんは元より、例えば元YMOの坂本龍一さんや山下達郎さんなどの記事にも原宿界隈のお店が出てきます。すでに音楽業界の人たちのたまり場になっていたことがわかります。

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いちご白書をもう一度

ですから、学生デモに参加できたのも自由でいられたからにほかなりません。ですが、そうした自由がなくなると、「無精ひげや髪を切らざるを得なく」なります。しかし、本当はそれ以外の選択肢もあったはずです。就職ではなく、どこにも所属せずに働く方法です。そうした状況で就職を選択したということは、自分自身でその道を選んだことになります。そして、上司や会社の命令に従うことになんの疑問も持たなくなっていきます。多くの学生たちが…。

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喝采

ネットで「ちあきなおみ」さんを検索しますと、この「喝采」のほかには「朝日のあたる家」がよく出てくるのですが、この歌はアメリカでは昔から作者不明で知られている歌らしいです。それを日本語で歌っているのが「ちあきなおみ」さんなのですが、いろいろ調べていくうちに、アメリカでの歌詞と日本の歌詞では内容にかなり違いがあるようです。

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おやじの海

こういった経緯があるそうですので、僕が知ったのは1980年頃でしょうか。おぼろげながらの記憶では当時、TBSで放送されていた「ザ・ベストテン」という歌番組で知ったように思います。この番組では演歌の方もたくさん出演していたのですが、一番記憶に残っているのは、なぜかタンスを肩にかついだまま大ヒット曲「さざんかの宿」を歌っていた大川栄策さんです。確か、タンス職人の経験があったということでこのような歌い方になったのだと思いますが、なかなか素晴らしい発想です。

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スカイレストラン

今回書くにあたって調べていくうちに幾つか知らなかった情報を得ました。僕がこの歌を知ったのは「ハイ・ファイ・ブレンド」というアルバムなのですが、この歌はシングルでも発売されており、そのB面が「土曜の夜は羽田に来るの」だそうです。この歌も女ごころを見事に切り取った歌詞なのですが、どこかしら「スカイレストラン」と似たような風景が浮かんでくるのはそうした事情もあるのかもしれません。

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ホームにて

若い女の子が地方から東京に出てきますと、やはり誰でも都会での生活でそれなりに楽しい時間を過ごします。地方とは華やかさが違いますから刺激的でとても満足した暮らしをするものです。そんな中である人は結婚相手を見つけ定住するのですが、いい人が見つからず都会の生活にも疲れたある人は、この歌詞のように地元に帰る選択をすることになります。

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ハナミズキ

当時は渡辺プロダクション、通称「ナベプロ」の全盛時代でしたが、そのナベプロが運営するグループだったように思います。当時、売れ出した若手タレントが「スクールメイツ出身」という話はそこかしこで聞いていました。「木綿のハンカチーフ」の太田裕美さんもスクールメイツ出身ということで有名でした。当時の芸能界はナベプロが牛耳っていたといっても過言ではないくらい、大きな力を持っていました。