帰って来たヨッパライ

ザ・フォーク・クルセダーズのデビューシングル
1967年12月25日[2]に東芝音楽工業(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサル ミュージックLLC)の洋楽レーベル・キャピトルレコードからシングル盤が発売
作詞:フォーク・パロディ・ギャング(松山猛・北山修)、作曲:加藤和彦、編曲:ザ・フォーク・クルセダーズ

僕が小学生の頃の歌ですが、初めて聴いたときの驚きは忘れもしません。子供だった僕には面白くて面白くて仕方ありませんでした。音楽番組で北山修さんが神さまの役で「そんなことばっかりやってんだったら、出ていけーッ」っと叱っている場面が思い出されます。

たぶん僕よりも一年代上の人たちが本当の意味での「世代」なのでしょうが、フォーク・クルセダーズは若者から支持を受ていけました。このグループは3人組(加藤和彦さん、北山修さん、はしだのりひこさん)で学生時代に結成したそうですが、このうちの二人は芸能活動を続けていき、はしだのりひこさんはフォークグループを作り「花嫁」などのヒット曲を飛ばし、加藤和彦さんは作曲や編曲などで活躍し、北山修さんはお医者さんになりました。

僕はそれほど歌が好きだったわけでもありませんでしたので、音楽業界に詳しくはないのですが、最も印象に残っているのは加藤和彦さんです。加藤さんの名前はいろいろな場面で聞くことがあったのですが、安井かずみさんのご主人というのが一番有名だったかもしれません。なぜなら、安井さんは当時時代の最先端を行く女性の象徴的存在だったからです。

僕が安井さんを知ったのは作詞家としてですが、それ以外にもいろいろな才能を持っていたマルチな方のようでした。作詞家のほかにエッセイを書いたりラジオのパーソナリティをしたりと八面六臂の活躍だったのですが、55歳という若さで癌を患い他界してしまいました。そのときの加藤さんの落ち込みぶりはマスコミでも大きく報じられました。

吉田拓郎さんはフォーク界の頂点にいた方ですが、その拓郎さんが「録音のやり方を加藤に教えてもらった」となにかのインタビューで話していました。加藤さんが音楽業界では一目置かれるほどの存在だったことがわかります。少しばかり余談になりますが、加藤さんは安井さんが病でお亡くなりになったあとかなり若い女性と結婚したのは、正直に言いますと少しばかり落胆しました。純愛で結ばれていたはずの加藤さんと安井さんでしたので、安井さんがお亡くなりになっても純愛を貫いてほしかったからです。

「帰って来たヨッパライ」がヒットした当時、僕は子どもすぎてあまり深く考えていませんでしたが、おそらく戦後の日本の音楽業界を変革するほどの影響があったのではないでしょうか。まず「早回し」で歌を作るという手法などそれまでの音楽業界の人たちでは絶対に思いつかないはずで、「異端児」として扱われていたように想像します。

しかし、その後加藤さんやはしださんは音楽業界を席捲していくのですから、加藤さんたちの登場は時代が求めていた結果だったのではないか、と思っています。いつの時代も時代を変えるのは若い人たちです。今の時代にしても年寄りの僕からしますと驚くことばかりですが、このようにして時代が進んでいくのが理想的だと思っています。

今の時代で言いますと、Adoさんという方が「帰って来たヨッパライ」になるのでしょうか。今の音楽業界に詳しくありませんので知ったかぶりになっていたら申し訳ないのですが、顔を出さずアニメと声だけでヒット曲を連発させるなど、かつてではありえなかったことです。こうやって時代は進んでいくのでしょう。

それでは、また。

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